赤いパスクア

パスクア(イースター)は、春分後の最初の満月の次の日曜日に祝われる。

クリスマスが実は冬至のお祭りであるのと同じように、パスクアも「これから1日のうち、昼の方が長くなるぞ!春だね!」という意味合いの行事であることは間違い無いだろう。

ちょうど、3月28日にサマータイムが始まったところでもある。

そしてパスクア は、カーニバル(謝肉祭)の後に来る、祈りと節制の期間(四旬節)の終わりを告げる行事でもある。

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パスクアとパスクエッタ

イタリアでは、クリスマスに次いで重要な行事でもあるパスクア。

パスクア当日の日曜日には家族で集まって食事をし、翌日の月曜日(パスクエッタ)には友達とピクニックをする。

暖かくなり始め、海辺などでピクニックをするのにピッタリだ。

これから暖かい季節が来るんだ、と心もウキウキしてくる。

この期間には、卵形のチョコレート(ウオーバ・ディ・パスクア)や、鳩の形のフワフワの甘いパン(コロンバ・パスクワーレ)を食べる。

By Josef Türk Jun. – originally posted to Flickr as Osterei Verzierung, CC BY-SA 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10320536
By N i c o l a from Fiumicino (Rome), Italy – la NiColomba, edizione 2013 – ND0_4662Uploaded by Mindmatrix, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30373309

スーパーで売っているKinderのものから、高級パスティッチェリアのものまで、華やかで大小様々な卵型のチョコレートが売られる。

卵は、生命の始まりや復活の象徴である。

鳩は、キリスト教で平和と救いの象徴とされる。

ウサギもパスクアによく登場するが、ウサギは多産であることから、豊穣や繁栄の象徴とされている。

最後の晩餐

レオナルド・ダ・ヴィンチ – 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24759による

しかし、このパスクア、今ではキリストの復活祭とされているが、元はユダヤ教のお祭り「過越(すぎこし)の祭り」であった。

過越は、エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民が、モーゼの先導でパレスチナの地に脱出した故事(出エジプト)を記念するお祭りだ。

もともとキリストも、この過越をお祝いするため、過越の前夜に信者たちとお祝いの晩餐をしていた。

そのすぐ後に捕まったので、これが結果的に「最後の晩餐」になってしまった。

処刑されたのは金曜日の過越当日である。

そして、キリストが復活したとされるのが日曜日の復活祭である。

最後の晩餐の木曜日(ジョベディ・サント)と処刑された金曜日(ヴェネルディ・サント)、そして翌日の土曜日(サーバト・サント)も、それぞれキリスト教にとって特別な日である。

通常、学校なども聖木曜日(ジョベディ・サント)から翌火曜日までの6日間ほどがお休みとなることが多い。

教会では、ジョベディ・サントには最後の晩餐を記念する四旬節最後のミサが行われる。

パスクアの語源

さて、復活祭を意味する英語のイースター(Easter)は、ゲルマン神話の春の女神「エオストレ(Eostre)」に由来するといわれる。

他方、パスクアはというと、先にあげたユダヤ教の「過越(すぎこし)の祭り」を表す「ペサハ」(Pesach)というヘブライ語から来ている。

Pesachはイタリア語に訳すと「過ぎ越す(Passare oltre)」という意味を持ち、エジプトの国境を超えたことを表す。

しかし、これももともと春分を祝う大衆的な習慣と結びついたものであったと考えられる。

赤いパスクア

Tony Esopi, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1895448による

赤は血を連想させる色。

パスクアの卵の赤は、キリストの血を表していて、キリストの血によって世界が救われるという意味が込められている。

パスクアに食べられる羊も、子羊を生贄として捧げるという意味合いがある。

私はキリスト教には詳しくないが、死と生はセットで、螺旋のようにループするものだという点は納得できる。

「キリストの死が人類を救った」というのは、もしかしてただ単に「春になって花が咲くには、冬という季節が必要だ」という、季節の巡りを表しているのかもしれない。

そう言えば、イタリア語の生徒さんが、素敵なことをおっしゃっていた。

「冬も必要なのよ。春に花が咲くっていうのは、冬にだって、何かが育ってるってことなんだから。」

冬がなければ、春も来ないのかもしれない。

沈黙の春

4月3日(土)のパスクア前日から、4月5日(月)のパスクエッタまで、イタリア全土が赤ゾーン(ロックダウン状態)になる。

世代を超えて集まって食事をすると、感染の危険が高いという理由からだろう。

サイレント・クリスマスに続いて、今度はサイレント・スプリングである。

まさに「沈黙の春」であるが、聞こえないのは鳥たちのさえずりではなく、子供たちや親しい人たちの賑わいだ。

本の中で鳥たちは殺虫剤に汚染された虫を食べて死に絶えたが、私たちはマスクをして黙らされている。

この本の「アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった」という書き出しの「明日のための寓話」を引用する。

 「自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた」「春がきたが、沈黙の春だった。いつもだったら、コマドリ、スグロマネシツグミ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声で春の夜はあける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つしない。野原、森、沼地――みな黙りこくっている」「でも、敵におそわれたわけでもない。すべては、人間がみずからまねいた禍いだったのだ」

レイチェル・カーソン 「沈黙の春」より

これは、カーソンがいうように「本当にこのとおりの町があるわけではない」あくまでフイクションの寓話である。

なぜ鳥たちがいなくなったかというと、虫たちが農薬で汚染されたからだ。

その虫たちを食べた鳥たちが、真っ先に犠牲となり、ある日ポトリ、ポトリと木から落ちてくる。

この部分は非常に印象的で、実際に農薬が散布された後に、このようなことが起こったという。

昨今は、昆虫の減少が大きな環境問題として話題になっている。

動物の糞尿を分解し、いわば「浄化」する虫がいなくなることにより、更なる感染症の拡大や食糧難が懸念されている。

「明日のための寓話」のように自然が完全に沈黙してしまったら、もう終わりである。

そう考えると、元凶の私たち人間が一時的に沈黙して済むのなら、これは幸いと言えるかもしれない。

恐ろしい話ではあるが、実際私たちが送る現代生活は、我々自身の子孫を犠牲にして成り立っているとも言えるのだ。

子供達の未来が本物の「沈黙の春」にならないように、地道な努力が必要だ。

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