こちらの「LUIGIのイタリアンポップス」シリーズは、イタリアのポップス(カンツォーネ)に詳しく、日本でバンド活動もされていらっしゃるLUIGIさんが、イタリアの60年代に流行したカンツォーネを紹介してくださいます!
さて、第6回目は、ジリオラ・チンクエッティの「夢見る想い “Non ho l’età”」です。
1964年当時、14歳の日本少年だったルイージ さん。
きっと、ルイージ さんと同じように「萌え」た当時の人も多かったのではないでしょうか?
1964年、弱冠16歳ジリオラ・チンクェッティ衝撃のデビュー
前年の新人歌手コンテストで優勝しているとはいえ、駆け出しの新人歌手がサンレモにエントリーするものの、下馬評では誰も彼女を有力候補には見ていなかったらしい。
それが初出場でいきなり優勝してしまったから、大変。
その後ユーロビジョン・ソング・コンテストに母国を代表して出場、ダントツで優勝します。
(ユーロビジョン・ソング・コンテストについては、ウィキペディア(Wikipedia)日本版に立派な解説があります)
YouTubeで「夢見る想い ジリオラ チンクエッティ」と日本語で検索すれば、サンレモ録画の再々アップがヒットしますが、画像の白飛びが激しいので、ここでは敢えてユーロビジョン・コンテスト版「火事で消失部分を縫い合わせ動画」を選びました。
ジリオラ・チンクェッティ(Gigliola Cinquetti)
夢見る想い Non ho l’eta (per amarti) (1964)
この衝撃的なサンレモ・デビューの様子は日本でも放映され、一大カンツォーネブームをもたらすきっかけになりました。
1960年代半ばといえば、元祖青春デンデケのベンチャーズをまねてエレキ小僧が巷に溢れ、ビートルズの大ブレイクやローリング・ストーンズなどのロックミュージックの台頭で日本の軽音楽界は大賑わい。
そこにカンツォーネが割って入って、総員入り乱れての大混戦、ポップス界百花繚乱の時代となりました。
濃い時代でしたね。
と、まあ前置きが長くなりましたが、さんざん聴いたこの曲 “Non ho l’eta” をあらためて聴いてみることにします。
とにかく前奏がすごい。
ストリングス総出か?というような分厚いグリッサンドで一気に駆け上がり、それをうけてピアノがフォルテッシモで打ちつける。
それもダダン…と気合いの2連打だ。
そしてこれでもかとばかりに、これを4回も繰り返す。
まぁ何とも大仰なアレンジだこと。
ピアノの音が減衰する中、「次はどんな凄い歌か」と固唾をのんで聴き待つと、16歳の少女が「まだそんな年頃でないの」と、おずおずと歌い出す、この落差!
世界中の男子が「萌えー!」…となったかどうかは知りませんが…。
当時私は14歳。
ニキビも出はじめて、ようやく異性を意識しはじめた時に出会った、このイタリアの2つ年上のお姉さんは、それはキレイで眩しくて「萌えー!」どころの騒ぎではなかった。
とにかく、この時に私の「イタリア大好き」スイッチが入ったのは間違いない。
話を戻します。歌の部分では特段の仕掛けもなく、間奏もなく、可憐な声の歌い上げで終わりを迎えます。
後奏(という熟語はない。最近はアウトロと呼ぶらしい)は再び大仰なグリッサンドとピアノのダダンで壮大に締める。
重厚サウンドでジリオラの歌を挟んだパニーノだな、これは。
そうそう、彼女の名誉のために訂正します。
彼女は決して「おずおず」とは歌っていません。
彼女なりに「堂々」と歌っています。
だけど可愛い!...
さて、ジリオラの事を書き続けると止まらなくなるのでバッサリ断ち切ってと...
当時のカンツォーネについて感じた点を追記します。
先述のピアノの2連打はジャンニ・モランディ(Gianni Morandi) の曲でも使われています。
当時流行りのアレンジだったのでしょうか。
“Non son degno di te” (1966年) 本人出演の同名アイドル映画のラストですね。
この映画が縁で共演の女優とめでたく結婚したとか...
ふと思い出しましたが、有名なクラッシックの「チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番」、冒頭のピアノ・ソロで2連打が...。
編曲者はこういうところから技を拝借してくるのかな?
またもう一点、優美で快活なストリングスの働きも見逃せません。
例えば “Non ho l’eta” では、サビ(Bメロ)の “Lascia che io viva” にさしかかると、歌に呼応してストリングスが舞うように絡んできて、快活に歌の背景を飾ります。
このような伴奏をオブリガードとかカウンター・メロディというらしいですが、この曲に限らず、当時のカンツォーネには結構多かったように感じます。
この時代、どこの国でもポップスの伴奏はだいたいクラッシック編成の楽団。
だけどアメリカ等のポップスに比べ、イタリア・カンツォーネでは、弦楽器のオブリガードなど鮮やかな躍動が際立ったように思います。
私にとってその印象は、さながら清らかな川の流れのよう。
このような音色を好んで聴きながら、少年期の私の耳は育てられたような気がします。
そんな私の耳に「窒息するほど強烈なカンツォーネの香り」を運んだ純日本製のポップスがありました。興味のある方はこちらへ。
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この記事を書いた人
LUIGI

あと何年かで6回目の廻り年になる、イタリアのポップス(カンツォーネと呼ばれた)やイタリアンカルチャーファンの爺さんです。
最近、終活を意識するようになり、人生での「やり残し感」を思う事が多くなりました(いっぱいあるけど)。
そんな時、イタリア語会話講座の広告が目にとまりました。
意識の底にイタリアンカルチャーへの関心が残っていたからか?
何か少し近づけるような気がして習い始めました。(学生の頃は勉強が、特に外国語は大の苦手でしたが)
会話を習ううち、イタリアンポップスの歌詞に興味が湧き、アイナ先生にお願いして歌詞の翻訳も習うことになりました。
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