24歳で、大好きなイタリアに留学した。
大学院に入学したが、イタリア語は初級レベル。
初めは1人だけ会話についていけなくて、すごく辛かった。
それでも、とにかくイタリア人と一緒に過ごすことを心がけていた。
言葉も学びたかったし、イタリアの文化についても知りたかった。
でも、私は、自分が東洋人っていう引け目も感じていた。
言葉も下手だし、なんかいつも自分が下みたいな気がして、引け目を感じていた。
人種のグラデーション
そんな時、私の中で大きな存在だったのが、ハーフの友達である。
彼がいると、とたんに、その場にグラデーションができる気がした。
イタリア人と日本人、その間にハーフの彼がいることで、カベが消えてしまうような気がした。
実際、彼は、イタリア語も日本語もすごく上手だった。
でも、別に通訳として使ってた訳ではない。
外国人同士のカベって、言葉だけではないのだと思う。
見た目だったり、思い込みだったり、ちょっとした感情表現の違いだったり、そういうのが、緊張を生み出してることがある。
ハーフの彼は、言葉だけじゃなくて、両方の文化の根っこにある違いについて、よく知っていた。
イタリア人と日本人が交流するときに起こりやすいハプニングとか、お互いがお互いに感じる魅力とかも、小さい頃からずっと見てきたことなので、よく知っていたのだと思う。
だから、彼がいるといつも安心した。
それに何より、イタリア人と日本人の間に明確なカベがあるんじゃないってことを、感じさせてくれた。
そっちもこっちも、同じひとつづきの人間なんだなって。
「ハーフ」か「ダブル」か
「ハーフ」っていう言葉は、何かが足りない「半分だけ」みたいで、よくないという考え方がある。
でも実際は、ピザでいう、ハーフ&ハーフみたいな感じだろう。
だから、2種類あるじゃん!ってことで、「ダブル」という言い方もされる。
イタリア語では、イタリアと日本のハーフは、イタロジャポネーゼと呼ばれる。
直訳すると、「イタリア日本人」だ。
そして私の子供も、「イタロジャポネーゼ」である。
ハーフの子はよく、「どっちの国に行っても外国人」と言われるのだが、私にとって、ハーフの友達は、「私たちって、結局、国籍で線を引いて分けられるものじゃないんだな」っていう、「実感」をいつもくれる存在だった。
それに、ピザの具材だって、色々だ。
実際、イタリアで出会った人たちの中には、「お父さんはイタリアとオーストリアのハーフで、お母さんはエジプトとシリアのハーフ」というような人が結構いた。
「ニューハーフ」
ハーフといえば、ニューハーフという言葉を聞いたことがあるだろうか。
こちらは、男と女のハーフという意味らしい。
最近はニューハーフなどとは呼ばず、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの人々の総称として、LGBTという言葉が使われる。
結構前に、「LGBTは生産性がない」っていうことを書いた、日本の国会議員がいた。
同性同士の結婚だったら、確かに子供は作れないかも知れない。
でも、子供を作るっていうことの意味は、「人類を存続させる」ためであるはずだ。
本当に「この人類を存続させていく」ためには、多様性、つまりレインボーカラーが必要である。
存在のグラデーション
二つの人間の遺伝子をマゼマゼして、新しい人間を作るっていうのは、ニュータイプを作ることだ。
そういう意味では、私たちヒトはみんな、男と女のハーフである。
新しい人間ができるので、遺伝子の多様性が増えることになる。
LGBTの人は、2つの遺伝子をかけ合わせる、そういう「遺伝的な多様性」は生み出せないかも知れない。
でも、クリエイティブな仕事をしたり、文化的な多様性を生み出すことに長けた人が多いそうだ。
それに、その存在だけでも、もう十分意味があるんだと思う。
男と女の間にグラデーションがあることで、救われる人もいっぱいいる。
話が飛んでしまったが、私が言いたいのは、色んな人がいるって、それだけでも価値があるということだ。
結婚している人、していない人、子供がいる人、いない人
ところで皆さんは、結婚についてどう考えているのだろうか?
子供がいるとか、いないとか、結婚してるとか、してないとか、いる人といない人の対立のような構図で語られることがある。
特に女性は、「負け犬の遠吠え」という本に読まれるような価値観や、同性同士のマウンティング、コンプレックスなどに苦しむことがある。
でも、実際はどんな状況の人の間にも、お互いの明確なカベはないんだと思う。
私たちは、自分の親とか社会を見て育ってきている。
私たちの親の世代も、夫婦のあり方とか、性別のあり方について、いろんなことを考えてきたと思う。
その影響で、私たちは、子供を産んだり、産まなかったり、結婚したり、しなかったりっていう選択をしている。
だから、それって、私たち世代の人が、みんなで「実験」して、みんなで生き方を探してるっていうことだと思うのだ。
正解はないっていうより、「いろんな答えがある」っていうことが、正解なんじゃないだろうか。
シングル(ス)マザー
私は結婚しないで子供を産んだ。
シングルマザーと言うが、私は、パートナーと一緒にイタリアで暮らしていた時の方が、シングルスで闘っていたかんじだ。
子供がボールだとしたら、24時間、テニスし続けて、ボールが永遠に帰ってくるのだ。
ラリーを続けないと、ゲームは終了。
そしたら、「疲れたから、誰か代わって~!」と、パートナーに頼りたくなるだろう。
でも、パートナーは、横で本とか読んでいるのである。
私はラリーしながら、洗濯して掃除して料理してるのだから、殺意しか湧かない。
ここに写っているのは幸せそうな写真だが、虐待しそうになる時もあった。
眠れないので体は辛いし、自分の時間なんて1分もない。
それまで自分中心に生きてきた私には、1人で子育てするのはあまりにハードルが高かった。
子供ができて1年半は、パートナーとイタリアにいたのだが、その間、3時間以上続けて眠ったことは一度もない。
子供が夜の7時半に寝たら、夕ご飯作って食べて、10時頃に私も寝ようとすると、子供が起きる。
で、授乳して、おむつ変えて、寝ようとすると、添い乳がチュパチュパ1時間くらい続く。
11時にやっと一緒に眠ると、12時半にまた起こされる。
で、また、授乳、オムツ替え、添い乳、そして1時間半~2時間くらいの睡眠。
これを3セットしたら朝になる。
1時間半✖️3回で、合計4時間半の睡眠。
しかも細切れ。
そんな中、毎日スヤスヤ1人で眠り、昼間は本を読みに図書館に行くパートナーに、毎日ご飯を作ってあげる生活。
しかも、働いて生活費を入れるならまだしも、食費もオムツ代も出さなかった。
ここまで来ると、パートナー解消である。
今は、日本に帰ってきて、日本の家族に助けてもらって楽になった。
だから、「無理してでも、幸せな結婚を維持しなくちゃ」っていうプレッシャーがなかったことは、本当にラッキーだったと思っている。
ちなみに、結婚しないで子供を持つっていうのは、アイスランドだと70%、フランスで60%、ヨーロッパだと平均50%の人がそうしているらしい。
日本では3%もないのだが、国によっては、「子供がいても結婚しない」方が多数派だったりもするのだ。
世界全体を見たら、別に無理して結婚しなくてもいいなって思えるのではないだろうか。
ただ、今の日本では、ダブルスで子育てをすることがデフォルトになっている。
子育てはそもそも、1人でできるものではない。
2人いたって、足りないくらい。
そこで、なぜ「1組の男女」で子育てをしなければならないのか、私には正直理解できない。
夫婦別姓と同じように、同姓にしたい人は、すればいいだけの話ではないだろうか。
結婚したい人はしたらいいし、結婚のメリットもあるだろう。
だけど、私は自分の両親を見てきて、単純に「結婚って素晴らしい」とは思えなかった。
結婚にしばられて苦しむくらいなら、結婚せずに、無理のない形で結びついていたかった。
お互いにとって幸せでない関係は、すぐに解消できることが、子供のためにも大事だと考えた。
私は、「結婚によって」不幸になることだけは、避けたかったのだ。
多様性こそが、豊さだ
昔、こんな言葉を聞いたことがある。
「多様性があるということは、それこそが豊かなことだ。」
この言葉を聞いて私は、率直に「え?なんで?」と思った。
けれど、不思議と心に残って、忘れられない言葉になった。
どうして多様性が豊かさと呼べるのか、今はこんなふうに考えている。
生きてるってことは、それだけでも、人の「役に立つ」ことだ。
引きこもりは生きてる意味がないとか、生活保護を受けている人にやる税金がムダだとか、そういう言い方がある。
でも、それは大きな間違いだ。
人間は、いろんな生き方をしなきゃならないのだ。
みんなが同じだったら、人類が存続できる可能性を広げられない。
水俣病で生き残ったおばあさん
例えば、水俣病が流行った時のことを描いた、ノンフィクションの絵本を読んだことがある。
汚染された魚を食べた、若い母親は死んでしまう。
そのおっぱいを飲んでいた、赤ちゃんも死んでしまう。
バタバタ人が死ぬなかで、お魚を食べていなかった、年取ったおばあさんだけが生き残った。
お婆さんはとても悲しんだと思うが、このお婆さんのおかげで、絵本の作者がこのお話を聞いて、それを本にすることができて、それを日本中の人が読むことができた。
魚を食べれない人が、いてよかったのだ。
食べ物の好き嫌いだって、アレルギーだって、もしかして必要性があって起こっているのかも知れない。
この地球上、いつ何が起こるかわからない。
コロナ みたいな、パンデミックも起こってしまった。
今回の感染症も、感染力が強くて、あっという間に感染者が広がったが、今後、もっと早い、もっと強いウイルスが、絶対現れないとは言い切れないだろう。
そんな時、もしかして、引きこもっている人だけが生き延びることができる可能性だって、あるのではないだろうか?
だから、どんな生き方だって意味はあると、私は思っている。
だからこそ、私たちの税金を使って、子育て支援をしたり、障害のある人や、生活保護なんかにも、国のお金が使われている。
全部、私たちのためだ。
弱い人が、得をするためではない。
みんな、必要なので、未来のために投資しているのだ。
カラフルな社会
ここまで、散々「違っている意味」についてお話ししてきたが、そんな社会を実現するためには、多様性のある政治が必要だ。
選挙権を行使しないと、政治は変わらない。
イタリアでは昔、選挙権を得るために、貴族がすごいワイロを払っていたことを、知っているだろうか?
選挙権は、お金を払っても欲しいものだったのだ。
なぜかというと、政策によって、自分の商売がうまくいくかどうかが決まるからだ。
これは、現在の日本でも全く同じことだ。
自分たちに有利なように、有利な議員を選ぶ。
当たり前のことだろう。
しかし、私たちは与えられた貴重な選挙権を、お金を払ってでも投票したいと思うほど、真剣に使っているだろうか?
もし女性としてちゃんとキャリアを積みたいなら、そういう支援をする公約を掲げている人や、政党に、投票しないといけない。
女性の国民は日本に半分以上いるのに、今回できた内閣は、70くらいのおじいさんばっかりである。
誰が、あなたの声を代弁してくれるのか?
誰が、あなたのことを本当に理解してくれるのか?
私は30代女性だが、現代の30代の女性の声を代表して、政策にしていける人って、やっぱり同じような体験をした、せめて今40代の女性とか、そうじゃなきゃ、どうやって気持ちがわかるというのだろうか?
例えば、自分は将来、結婚しても苗字は変えたくないと思っているなら、夫婦同性を強制している政党には、投票できないはずだ。
自分の幸せのために、自分を動かすことは、あなただけの「義務」だ。
多様性のある政治といえば、ニュージーランドの内閣が思い浮かぶ。
女性の首相、先住民やLGBTの議員。
ちなみに、そのアーダーン首相も事実婚で、正式な結婚はしていない。
本当に豊かで、サバイバル能力のある社会は、きっと私たちみんなが暮らしやすい、色とりどりの世界になるはずだ。
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