イタリア語と英語で「ブラック・ライブズ・マター」を考える

イタリア語で「黒人の命も大切だ」は何という?

日本人のテニス選手である大坂なおみが、Black Lives Matter の名の下、全米オープンで優勝した。

Black Lives Matter(黒人の命も大切だ)は、BLMとも略され、イタリアでも英語のまま表記される。

イタリア語に文字通り訳すと、Le vite dei neri contano(レ・ヴィーテ・デイ・ネーリ・コンタノ)となる。

「Black Lives Matter」と読むときより、私は「Le vite dei neri contano」の方が、痛々しくて、胸に迫ってくる。

contare は、もともと、「数える」という意味がある。

contare i numeri で、「数を数える」という意味だが、contare は他にも、「価値がある」「大事だ」「重みがある」「頼りにする」という意味で使われる。

日本語でも、「候補者として数えられる」という言い回しのように、「数えられる」には、「値する/認識される」という意味もある。

また、「数えあげる」という言い方には、「ひとつひとつ取り上げる」という意味がある。

なぜイタリア語の「Le vite dei neri contano」が、胸に迫ってくるかと言うと、「無意味じゃない」「存在してるんだ」と言うニュアンスがあるからだ。

「無」のように扱われたものを、「有」として扱う、というのが contare という動詞。

「Rendersi conto」という言い回しもあって、conto は contare の名詞形だ。

意味は、「実感する」「理解する」「気付く」ということ。

それまでも、ちゃんと存在していた事柄について、「やっと気づく」という意味だ。

英語の「マター」は、「スペースを取る」という意味

英語の Matter も、そういう意味がある。

「大切だ」と訳されるが、実際は「スペースを取る」というニュアンスがある。

この世界に、一定のスペースを取る=存在する ということで、名詞としては「この世界を構成する物質」「問題」という意味がある。

動詞としては、「スペースを取る」「存在する」「存在として認知する」という元々の意味から、「大切だ」という意味になる。

大坂なおみは、犠牲者達の名前入りのマスクをして、戦った。

まさに、彼らのことを「ひとつひとつ取り上げ」て、この世界の中に彼らの命を「存在させる」ための行動だったと思う。

私も、マスクに書かれた犠牲者の話を、いくつか読んでみた。

私の世界の中にも、彼らの人生が、ひとつひとつ、スペースを取って、少し泣いた。

日本はアジアのヨーロッパ??

ところで、Black Lives Matter と聞いて、日本人は自分の問題だと思うだろうか?

大坂なおみは、黒人であり、アジア人であり、女性である。

自分のことを「黒人女性」だと言っているが、日本人でもある。

彼女は文字通り、テニス界で「最強」の選手であるが、この肩書きは、この地球の上で生きていく上で、「最弱」とも言えるものかもしれない。

この世界は、人の見た目や、国籍、そして人種で優劣をつけたがる。

ロバート・キャンベルがどこかに、こういうことを書いていたと思う。

日本人は「アジア人」という時、自分がアジア人だと思っていない

確かに、日本人は「アジア」を軽視する傾向があり、日本を「アジアのヨーロッパ」だと思っている節がある。

でも、日本人はどこからどう見ても、100%アジア人である。

その屈折した自意識は、自虐的でもある。

だって、アジアを否定すれば、「自分」を否定することになるのだから。

自分で自分を差別しているようなものだ。

筆者のイタリアでの差別体験

私は、6年間イタリアに暮らし、正直、差別にはうんざりして日本に帰ってきた。

毎日のように向けられる差別的な目線や、なにげない態度。

時には怒鳴られたり、ゴミや、何か硬いものを投げられたこともあった。

地下鉄で、「あっち行け、中国人!」と、大声で怖いおじさんに怒鳴られた時。

私は、誰を責めればよかったんだろう?

差別される側の中国人を恨んで、「私は日本人だ!」とでも言えばよかったのか?

それとも、見ているのに助けてくれない、電車の中の、周りにいたイタリア人を恨めばよかったのか?

道端で、イタリア人の男の子達に、手をグーにされて、殴るようなフリをされた時。

とっさにおびえて、頭を手で守った、自分を恥じればよかったのか?

その後、笑いながらグーの中にあったゴミを投げられた時、わたしはちっとも面白くなかった。

むしろ、とてもこわかったし、屈辱だった。

でも、言い返したりできなくて、くやしかった。

2度目、別の集団にゴミを投げられた時は、後ろから「クソ野郎!」と叫んでみた。

手がふるえていた。

怒っていたのか、怖かったのか、わからない。

ねえ、でも、大坂なおみは、どれほどこういう思いをしただろう?

きっと、数えきれないくらい、同じような思いをしてきたはずだ。

私だって、イタリアにいた6年間だけで、こんなことは数え切れないくらいあったのだ。

黒人とアジア人のハーフの女性なんて、アメリカではきっと「最下位」に近い。

私が男だったら、きっと石を投げられたりしなかっただろう。

こんな、気の弱そうな丸顔もいけないのだ。

単純に、ナメられるのである。

大坂なおみの、あの優しそうな顔。

彼女がテニスで優勝して、本当は誰よりも強いことが、私はすごく、すごく嬉しかった。

彼女が勝利した時、どれだけの黒人女性が、ガッツポーズしただろう。

大坂なおみは、そうやって、毎日の生活の中で差別に苦しんできた、みんなを背負って勝ってくれたのだから。

生活(Life/Vita)と命(Lives/Vite)

最後に、オバマ元大統領が10年ほど前に言っていた、今でも心に残っている言葉を紹介したい。

その時も、黒人の少年が警官によって射殺された。

オバマ氏は、レストランのビュッフェで、他の白人の議員と立ち話していても、ウェイターと間違われて飲み物を頼まれたりすることがよくあったというが、そのことについてこう語った。

国会議員が、肌の色だけで、ウェイターと間違われるのは、おかしいことだ。

でも、黒人が黒人だというだけで射殺されるのは、これとは全く別の話だ。

私は、この言葉が忘れられなかった。

なぜかというと、その2つの出来事の違いが、私にはよく分からなかったのだ。

2つとも、人種差別から起こってくる問題である。

でも、オバマ氏は、「全く違う話だ。」と言う。

「オバマ氏は、白人と差別され続けて、嫌ではないのか?」と、そう思ったのだ。

しかし今では、全く違うと分かる。

日常的に嫌な思いをするというのは、苦痛だけれど、殺されたらたまったもんじゃないのである。

当たり前の話だが、この気持ち、あなたには分かるだろうか?

コロナで黒人の死亡率が高いことで、怒る気持ちは、石を投げられた私の怒りの何百倍か、何万倍か。

私も、イタリアの病院で出産の後、放っておいたら命にも関わる医療ミスにあった。

医療ミスの原因には、イタリアの医療の問題や、医療関係者の職場環境や、沢山の問題が積み重なっているので、差別感情がダイレクトにミスにつながったわけではない。

それでも、入院中の看護師のあの態度。

産婦人科医の暴力的な内診。

私は、殺されると思った。

大切な人がそうやって扱われ、しかも死んだりしたら、もう「普通の生活」など意味がないのだ。

大坂なおみのマスクにも、「死んだ」人の名前が書かれていた。

彼らは「死んだ」のだ。

ここにある重みが、Black Lives Matter である。

英語の lives は life の複数形で、イタリア語の vite は vita の複数形だ。

英語の「life(ライフ)」もイタリア語の「vita(ヴィータ)」も、「生活」と「命」という2つの意味がある。

日本語で検索すれば、大坂なおみのマスクに書かれた犠牲者に関する記事を読むことができる。

私たちにできるのは、その人々を、私たち一人ひとりの中に、スペースを与え(matter)、一人一人を取り上げる(contare)ことではないだろうか。

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