自転車泥棒(ヴィットリオ・デ・シーカ)のレビュー

「自転車泥棒」 ヴィットリオ・デ・シーカ

あらすじ

モノクロ、93分の作品。

作品は、2年間失業していた主人公のアントニオが、広告貼りの仕事を見つけるところから始まる。

けれど、街中に広告を貼って歩くのにには、自転車が必要だ。

自転車がなければ、採用してもらえないと言う。

この職を得るために、アントニオも、妻も、息子のブルーノも、一家は一致団結して全力を出す。

しかし、このタイトルである。

一体いつ自転車が盗まれるのかと、観ている間、ハラハラしてどうしようもない。

自転車と資本主義

「自転車」というのは、資本主義の「資本」の象徴でもある。

自転車があれば、職につける。

自転車がなければ、職につけない。

でも、それでは、富める者は更に豊かになり、貧しいものはずっと貧しいままである。

これは、資本主義も同じことだ。

土地があれば、その土地を活用して、更にお金を稼ぐことができる。

工場があれば、そこで商品を使って設けることもできる。

しかし、お金がなければ、土地も工場も買うことはできない。

ただ、資本家に雇われて、従業員となるしかないのだ。

しかし、「自転車がなければ職をもらえない」という理不尽さに、主人公は疑問を感じる余裕はない。

ただただ、そのルールに従って、自転車を探し続けるだけだ。

自転車泥棒だと疑われた青年の母親は、警官に向かって「犯人扱いする前に、息子に仕事を与えておくれよ」と言う。

この社会の構造を変えない限り、誰かが「自転車泥棒」になるだろう。

ブルーノ

この作品で特に魅力的なのが、息子のブルーノだ。

父親よりも自転車に詳しく、自転車の型番や特徴もスラスラ言える。

父親がなんとなく頼りないのに対して、しっかりした息子の様子が面白い。

主人公である父親のアントニオは、この作品の中を生きている。

仕事を探さないといけない。

家族を養わないといけない。

けれど、ブルーノは、観客と一緒だ。

この社会を私たち観客のように「観て」もいる。

父親と、その父親をとりまく社会の様子は、この子の目にはどう映ったのだろう?

「自転車泥棒」と「イノセント」

ちょうど、「自転車泥棒」と一緒に借りたDVDが、ヴィスコンティの「イノセント」だったのだが、二つの作品は対照的だ。

「イノセント」が愛だの快楽だのと騒いでいるのに対して、こちらはとにかく、生きるために必死である。

映像的にも、「イノセント」はカラーで装飾的な貴族の生活を描いたのに対し、こちらはシロクロで、素朴な話だ。

「イノセント」が個人に焦点を当てた作品なら、こちらは社会に焦点が当たっている。

物語のあちこちに散りばめられた、社会の描写が巧みだ。

作品を観ると、当時の社会の空気を感じることができる。

当時の社会をまるごと描いたドキュメンタリー

映画はシロクロだが、労働者の汗の匂いがしてきそうなリアルさである。

実際、俳優たちも素人を使っている。

父親役のランベルト・マジョラーニは失業した電気工で、子役のエンツォ・スタヨーラは監督が街で見つけ出した子供であるという。

作品は1948年の第二次世界大戦後に作られた。

当時の社会の空気を感じ取れる、ドキュメンタリー的な要素もある映画である。

街の様子、人々の服装、仕草。

まるごと感じることができる作品である。


「自転車泥棒」 ヴィットリオ・デ・シーカ

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